島原の乱の舞台 島原城とコイが泳ぐまち散策

島原の乱の舞台 島原城とコイが泳ぐまち散策
2016年7月22日

熊本港からフェリーに揺られること約30分。島原湾をのんびり眺めているうちに、島原半島が見えてくる。島原外港から島原鉄道に乗り換えて、島原駅で下車。歩きはじめるとすぐ正面に見えるのが、島原城(長崎県島原市)だ。

島原湾に面し、背後には標高約819メートルの眉山(まゆやま)がそびえる。もともとこの地は数千年前の眉山の崩壊でできた流れ山のひとつで、かつては四壁山または森岳と呼ばれる山だった。天正12(1584)年の沖田畷(おきたなわて)の戦いで、有馬晴信・島津家久連合軍が本陣を置き、龍造寺隆信軍を撃破した場所でもある。

島原城を築いたのは、元和2(1616)年に大和五条1万石から島原4万石に加増され入った松倉重政だ。重政は日野江城と原城(ともに南島原市)を廃城とし、島原城を新築。元和4(1618)年から7年がかりで完成させた。元和元(1615)年の一国一城令後に幕府に新築を許可された城は珍しく、島原半島における政治・経済・文化の新たな拠点と見込んでの大事業だった。

4万石の大名が築いたとは思えない、立派すぎる城だ。城域は東西約363メートル×南北約1250メートルで、大手虎口(正面玄関)に設けられた桝形(出入り口に置かれる方形のスペース)は一辺が約54メートルと超巨大。古絵図からも堅固で豪華な設計が読み取れ、かつては外郭に33棟もの櫓があり、三階櫓、二階櫓、平櫓が連なっていた。

古絵図に描かれている天守は、現在のものと外観が異なるものの、三重ではなく五重だ。中心部は見事な屏風折れの石垣と、大規模な水堀で厳重に囲まれている。現在も残る本丸と二の丸の間の堀幅を見れば、スケールがわかるだろう。

明らかに身分不相応な島原城の築城が、寛永14(1637)年に勃発した島原の乱の一因になったといわれている。重政は厳しい情勢にも関わらず自ら十万石を申告し、増税を断行。資金調達のための大幅な増税と無報酬の過酷な労働を強いられた領民の生活は、困窮を極めた。さらには、数年に渡る大飢饉も発生。キリシタン弾圧も重なり、不満と怒りがピークに到達したのだった。

島原の乱は、突発的な宗教戦争ではなく、長きに渡るキリシタン迫害と窮乏の末路だ。そもそも南蛮貿易の円滑化のために広まったキリスト教が人々の精神を支えるものに変わったのは、人々が困窮からの救いを求めたからだ。もともと島原地方は不作の地。厳しい生活に加え心の拠りどころまで奪われれば、領民の憤りが爆発するのも理解できる。

さて、島原城といえば、すらりとしたフォルムの天守が印象的だ。昭和39(1964)年に復元されたものだが、思わずカメラを向けてしまう魅力がある。天守には層塔型と望楼型があり、島原城の天守は前者。五重の塔と同じ原理で、タワーのように各層が積み重なる構造だ。

見逃せないのは、本丸を取り巻く石垣。島原城に現存する建造物はなく道筋も改変が進んでいるのだが、豪壮な石垣を前にすれば、少なくとも立派な城であったことは連想でき、島原の乱の原因になったのも納得がいく。波打つように幾重にも折れる石垣のラインも美しい。

島原城をひと通り歩いたら、大手口前の「姫松屋」へ。ここでは島原の郷土料理、具雑煮をいただける。具雑煮は原城に籠城中、一揆軍の総大将・天草四郎が餅といろいろな食材を集めて炊いた雑煮が由来ともいう。

「鯉が泳ぐまち」もぜひ散策を。島原は水の都と呼ばれ、島原湧水群として環境庁の全国名水百選に選定されている。そのひとつがこの場所で、新町一帯の全長100メートルの水路に150匹の鯉が放流されている。

アクセス・問い合わせ・参考サイト

■島原城

島原鉄道「島原」駅より徒歩約10分

0957・62・4766 (島原城天守閣事務所)

島原市「島原城築城」

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