島原城 「島原の乱」後、城主は打ち首に 大規模な近世城郭

島原城 「島原の乱」後、城主は打ち首に 大規模な近世城郭
2017.03.26

 戦国時代から江戸時代初期にかけ、島原半島はキリシタン大名の有馬氏が支配していた。領民にもキリシタンが多く、徳川幕府が「キリスト教禁止令」を打ち出しても数は減らなかった。

 慶長7(1612)年、有馬晴信(はるのぶ)は岡本大八事件に連座して自刃(じじん)した。嫡男、直純が跡を継ぐが、有馬氏は日向国(宮崎県)延岡藩に転封となる。代わって、大和国(奈良県)五条から関ケ原の合戦や大坂夏の陣で武功をあげた松倉重政(しげまさ)が4万石で入封する。

 有馬氏の本拠は日野江城(長崎県南島原市)だったが、島原半島の南に偏っていたため、松倉氏は新たな城を築城することを幕府に願い出た。

 すでに一国一城令が出ていたものの、幕府は九州に多い外様大名の牽制(けんせい)並びに、対キリシタン政策のために築城を許可した。

 元和4(1618)年、雲仙岳の裾野が広がる地に築城を開始し、7年の歳月と延べ100万人の役夫を動員して、4万石の分限をはるかに超える大規模な近世城郭とし完成したのが島原城(長崎県島原市)だ。

 初代城主の重政はキリシタンに厳しく、跡を継いだ勝家(かついえ)はさらに厳しい弾圧を行った。幕府の評価を気にする重政は、島原城築城に加え、寛永年間の大坂城(大阪市)石垣普請に2度参加し、江戸城天下普請の際には4万石の大名ながら10万石の賦役を願い出るなど、領民の負担は増すばかりであった。

 もともと耕作地が少なく、相続く凶作に苦しめられていた領民は、藩政への不満、恨みを募らせるなか、寛永14(1637)年10月に「島原の乱」が勃発した。

 天草四郎に率いられた一揆軍は約3万人に膨れ上がり、原城(長崎県南島原市)に立て籠もって抗戦を続けた。事態を重くみた幕府は諸藩に命じて兵を招集し、12万人もの兵を投入した。兵糧攻めなどの策をとり、寛永15(38)年2月、ついに原城は落城した。一揆軍は皆殺しにされ、幕府軍も死者約1100人、負傷者約7000人を数える壮絶な戦いとなった。

 一方、島原城は島原の乱の4カ月にわたる攻防のなか、一揆軍の襲撃を受けたが落城することなく持ちこたえた。

 島原の乱後、松倉氏は責任を問われ改易となり、見せしめのため勝家は打ち首となった。 =次回(最終回)は浜松城(静岡県浜松市)

 【所在地】長崎県島原市城内1の1183の1
 【交通アクセス】島原鉄道「島原駅」から徒歩約5分

コメントを残す